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  • 執筆者の写真黒子 花

「お疲れ様でございました」







作家たちを応援してくれていた本屋が閉店してしまったことで、立ち止まって考えている。

そこら辺の配信よりも、一冊の本に込められたメッセージや世界観の方が圧倒的に深いし広い。しかも雄弁だ。


 情報量を考えるとなぜ売れないのか疑問だが、売れなくなってしまったのは事実。

 業界について語れば、変化に愚鈍であるとか、考えた末に間違えているとか、頑張って頑張ってクオリティが低いとか、心があるように装っているが心が何だかよくはわかっていないという人たちが多いとか、類は友を呼んでいるとか、売れようがない理由を考えるのは簡単だ。


 でも、ほとんどの人たちは他に選択肢が多いというだろう。

 それも事実だ。


 かつて人生に対し受動的だった日本人がいた。テレビで放送していることを真に受けて、特に考えず、エスカレーターに乗っているような気分で年を重ねる人たちが、本当にいた。

 年功序列で、会社に通うだけで出世し、ミスさえしなければ窓際に行くこともない。真面目に安定こそ正義という時代があった。


 その地点を考えると、今の世を生きている人たちはだいぶ人生に対して能動的ではないか。


 また、論理的に考えれば、先に言ったように、配信よりも詳しい情報で気持ちも広がるような内容が書かれている本の方が選ばれるのではないかと思ってしまう。なにより世界の長者番付にいるような人たちで読書家ではない人たちはいない。


 だが、現実は、仕事に疲れて酒でも飲みながら、ゆっくりだらけた雰囲気の配信を見ている時間の方が長いという人の方が多いだろう。もしくは感情的な配信を見て興奮し、ドーパミンを出したいだけなんだという人もいるかもしれない。


 つまり自分で考えるキャパシティ、容量を考えると、本で摂取する情報量よりも、単純で予測の付く動画の方が癒されるし、疲れないと思っている人たちは多いということだ。

 むしろ本で得られる情報量を処理するのに頭を使いたくないと思っているのかもしれない。気分とは、それほど変わりやすいものだ。


 自分が二十歳くらいの時にちょうど脳科学が流行っている時期で、本を読むと脳は疲れないということを知っていた。寝ないと老廃物が出ないから気分はすぐれなくなるのはわかるが、どれだけ肉体的に疲れたりしても、本自体は読める。


 では、本を読めなくなっている現代人は、生きているだけで摂取している情報量がそれほど多いというのだろうか。生活は昔と大して変わらないだろう。


 スマホから得られる情報量を処理しきれていないのだろうか。SNSの発達で、気分も左右されるし、ドーパミンの変化率も高くなっている。おそらく原因はこれだ。


 つまり、スマホなんて持ってSNSなんて見ている輩は、どいつもこいつも浮ついて生きているってことかもしれない。これによって思考力が分断されている人たちは多いのではないか。


 だとしたら、本当に現代人の生活に瞑想を取り入れればいいだけだ。

 自分の今日やるべきことを考え、何をするのか決めるだけで、浮ついた人たちよりも一歩先へ行ける。そこに豊かさを考えれば、当然想像力は必要になってくるから、どんな本を読めばいいのかも考え始めるだろう。


 上記で業界の至らなさを書いたが、ほとんどが浮ついているからだろう。

 本に集中すればいい人たちが、本ではないものに集中している。


 必要なのは瞑想。休息。空っぽの時間と、分断を繋ぐ決断だ。精神性や意志力、自分を律する力などが鍵になってくるかもしれない。


 自分を変えたい、夢を追いかけたい、夢を実現したい。本はそういう人間の活動の延長線上にある。先人の知恵や過去からの手紙と考えれば、簡単に捨てられるようなものでもない。

 

 書店が潰れるニュースは多くなったが、懸命な決断をしている人にとっては、本は必要なものだ。なくなることはないと思う。

 ネットの登場によって、不安を煽って人を呼ぶ商売が目立っているが、いい加減AIが出てきて不安がっている場合ではないという人もいるだろう。

 ここに来て倫理観が重要な世の中になってきた。

 

 かつて、寺山修司は「書を捨てよ町へ出よう」と言った。

 今、書店に掲げるべきは「落ち着けよ書を読もう」かもしれない。

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